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私の頭の中:言葉の焼き増し

 「芝青」という言葉を思いついた。使い道は「羨ましいけど、自分には無理っす」みたいなタイミング。 「えー、ちょー、芝青~」みたいな。


 この言葉を使うことで、相手の意見や行動を否定することなく、むしろ敬意を示すことができるのではないだろうか。ぜひ、使っていただきたい。



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 さて、私はこのような新語のできる過程を「言葉の焼き増し」と勝手に呼ぶことにした。使い回しとか再利用ではなく「焼き増し」。理由は再利用とかだと「旧式化」を意味し、その言葉はすでに失われてしまったというようなニュアンスが含まれてしまうことと、“複製・コピー”であることが私の下記理論にて肝心であるからである。例えば「ライブ」という言葉がある。


 日本では長年「ライブ・コンサート(生演奏)」の略として認識されてきたこの言葉は、近年の配信アプリの普及等により意味がより複合・重複化し、今や“ライバー”なんて言葉があるほどだ。

 〜初代ライバーはこっちだというのに・・、呼ばれたくないけど。〜


 これは「ライブ」という“言葉の焼き増し”(複製・コピー)だと、私は考えている。


 おや?おかしくないか?。複合しているのだから「複製・コピーができているのではなくて言葉の意味が増えたと考えるのが妥当なのでは」ないだろうか・・という真っ当な意見が聞こえるが、これでは問題があると私は考える。


 言語学者ソシュールの提唱した「シニフィアン(意味するもの)」と「シニフィエ(意味されるもの)」という概念がある。簡単に言えばシニフィアンが記号(音声)、シニフィエがその内容(意味)になる。ここで言うと、この考え方はシニフィエが増えているということになる。


 例えば国語辞典における一語に対する意味の羅列。あるいはPCのデスクトップの「ライブ」というフォルダの中に、彼方此方での様々な演奏情報や資料やらが増えていくイメージ。


 しかしながら、これには持続性がない。内容が増えることにより元来の使い方や意味が希薄になってしまう。年代や人間性により使い方が異なり、情報伝達に齟齬が出やすくなるということもあり、これは問題なのだ。ゆえにフォルダの整理が何処かで必ず必要になってくる。それくらいに故意に言葉が生みだされているので、スピードが追いつかない時代になっている。


 「言葉の焼き増し」とは単なる複製・コピーとはいえない。正確にはシニフィアンの複製・コピーという方が妥当かもしれない。親しみのあるシニフィアンに新しい、もしくは意味を“広義”にしたシニフィエが与えられる。オリジナルに対する複製・コピーであり、あくまでも完璧にその言葉を乗っ取ることはできず〜そもそもそれを目的にはしていない〜オリジナルは2つと存在しないと言う点で「焼き増し」という言葉を使いたい。



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 もう一つ整理しなくてはいけないことがある。本文の頭で勝手に私が作った言葉は、「合成」とか「切り取り」とか「省略」と言った方が打倒なのではないかと言う話。しかしこれは言葉が作られるための表面的な作業であり、新語が形成される内面的な本質に届かない。


 また基本的に「公用語」にはなれないという点も肝心で、ここがオリジナルとの壁である以上、複製・コピーであることを語気的に強めたい。なんか、この方が奥行きがある感じがする!


 次に考えたいのは、そうなるといつ頃からの言葉が新語であり、上記理論に当てはまるのだろうかという問題だが、、、、、。



 もうやめ。

 3日間かけて何をやっているんだとうか。

 しかしながら、頭の中が整理できた。

 スッキリした。



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 というわけで、私の頭の中の整理。極私的現代思想でした。

 絶対誰も読まないだろうね。

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