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朝の目覚めは耳から始まり・・・

  • 2016年8月3日
  • 読了時間: 4分

「朝の目覚めは耳から始まり・・・」僕の曲『雨の降る日はいい天気』という曲の冒頭部分。長い歌なのであまり歌わない。6月頃に歌う。 さてそんなこんなでこの日記を記している2016年8月2日(火)の朝(投稿は次の日夜になりましたが)は凄い雷雨で目覚めて、先週のめちゃイケを観た。山本圭壱、10年ぶりの極楽とんぼで2人揃っての地上波出演。僕は彼がやったことがゆるされることとは思ってないけどーというより「許す?赦す?」の基準ってよく分かんないんだけど(そもそも不起訴処分だし)ー泣いちゃいましたね。懐かしくて懐かしくて、感涙ってやつだ。 僕が中学生、14歳の頃に彼がいなくなった。その後僕は高校生になって土曜日も部活で番組自体みれなくなって、また暇ができたころには正直あまり面白くなくなってて、最近はほとんど観てない。だから昔感じていた、毎週が楽しみで、面白くって、憧れだったブラウン管の世界が帰ってきた感覚で・・嬉しかった。 彼がドッキリで“ブタのものまね”をさせられているとき、自分も年を重ね小さいながらステージに上がるようになったからか、もう辛くて辛くてしょうがなく、感情移入して悔しくなって、10年という月日が自らの体内に流れるのを感じた。 諸々意見の飛び交う世の中で、「通常社会人だったら復帰なんてありえない。芸能界はおかしい」とか「テレビに出てこないで舞台だけで生きてればいい」とか、そりゃあ当たり前の意見が溢れている。全くその通りだと思う。でも思うんだけど、そもそもあの世界って通常じゃなくて、おかしいわけで、その意見自体が的を射てないんだろうなと思う。 だってさ、一度やってしまうと隠れることはほぼ不可能。それって想像つかない苦しさだと思う。僕は同じ人間として「自業自得」では片づけられない。もちろんだからと言って犯罪がゆるされとか思っているわけではないけれど、起こしてしまった後、世間の目の方が通常じゃないと思う。 ーというと「メディアがそもそも取り上げなきゃいい!」って意見もあるかもしれないけれど、売れないものをわざわざ記事にはしない。どんな目線であろうとも盛り上がればそれは注目記事。だからよくマス“ゴミ”だなんて表現をする人がいるけれど、そのゴミを作り出している根本は、そう言う人たちの問題だと思う。ー だからこそ反対に再び表舞台を目指し世間の前に立ち続けるか、それこそ寺にでも入って俗世と距離を置くか、もしくは適当に養ってもらえる人が運良くいるか、、それくらいないんだろうと思う。島田紳助みたいに頭良ければ別かもしれないけど、彼は生粋の馬鹿だと思うし、10年経ってもここにしか居場所が見出せなかったんじゃないかな。 光浦靖子が「山さんはいつも自分が一番大事」って言ってた。その時僕は 佐村河内守のドキュメンタリー『FAKE』を思い出した。佐村河内もまた自分が一番大事、そのあまい性格が大きな事に繋がったんだろうな・・そう思った。 自らにストイックになること、危機感を抱き続けること、将来を見据えて行く頭脳、というのはこういった仕事では必須で、そこなしに高みに上ってしまうのって危険なんだと強く思った。まぁ僕にはどうも無関係な気がするけど。。 「舞台だけでやればいい」ってのはあまり反論ができない。でもやっぱり芸人他タレントにとってテレビは最高の舞台であって、その高みを目指してこそなんだと思う。個人的な感情で言えばテレビつけるとそこにいてくれることに意味があるんだけど、これはただの僕のエゴだからな。。彼をテレビでみて気分を害する人は、何も悪くないもの。 ただ僕はこんなおかしい世界を、面白“可笑しく”みていたいと思う。 ー「被害者の気持ちはどうなる!」っていう声もあるけれど、それは当事者間の問題であって、すごく雑な批難だと思う。ー とかく色々思ったわけだが、加藤浩次の男気には常々惚れ惚れだね。もうもらい泣きよ。彼が不幸になる事だけは絶対あっちゃならない、そう思った。 舞台に上がる者としても色々考えさせられたし、久しぶりに良いテレビ観た気がする。 雨の降るような日々をいい天気だと思える強さで(はたまた開き直りで)、嫌なことから逃げることなく立ち向かい(あるいは潜り抜け)、生きて行こうと思ったのでした。

 
 
 

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