お会式の夜
- 2016年6月20日
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“お会式の夜” この録音をしたのは、もう何年前のことか、、ってほど生きてもないのだが、初めてAPIA40でライブ活動を開始する直前に作って、それからほぼ欠かさず歌っている。最近この曲の持つ力って「意外とすごいかも」なんて思っている。
というのも、まず人気であることもそうなのだが、僕を慕ってくれるミュージシャンが数人この曲を勝手にカバーしているらしく、もう僕をというよりこの曲を慕っているのだと思う。フラワーカンパニーズの『深夜高速―生きててよかったの集い―』みたいにそれだけのカバーアルバムが、いつかできるんじゃないかなんて思う。 こうなってくるとこの曲についてのエピソードを書かなくてはと思ったので、今回は「お会式の夜」特集。
①詩について
まず言っておかなくてはいけないことがある、この詩は“僕の詩ではない”ということだ。youtubeを見て頂ければその通り、中が2つで中二病、中原中也の詩である。中原中也・全詩アーカイブにある通り、この詩が書かれたのは1932年、中也は1937年に30歳の若さで死去しているのでその5年前ということになる。 ここでいったん中也の周辺で起こる死にまつわるエピソードを少々。中也の死は彼の波乱万丈な人生からくる精神状態の不安が大きく関わっていると思われる。 (~1915年)弟の死・・・中也は2人の弟を亡くしている。中也最初の詩作は弟の死からであったそうだ。 (1924年)親友の死・・・中也がフランス詩に傾倒するきっかけとなった富永太郎24歳の死。また時同じくして、恋人泰子が文芸評論家小林秀雄の元へと去る。 (1934年)息子の死・・・死去3年前の10月。 その後1937年に中也はこの世を去ります。 中也の生涯については(http://www.chuyakan.jp/01chuya/01flame.html)
※ URLで飛んだらページ真ん中左の「中也の生涯」をクリック。 話を戻して1932年中也は現住所で言うところの、大田区北千束2丁目に転居する。1933年には遠縁の上野孝子と結婚。この時代の中也について書かれているページを見つけたので気になる方はコチラをご覧あれ。(http://designroomrune.com/magome/daypage/08/0828.html)
相変わらず呑んだくれのクズ野郎な感じではあるが、僕は中也の人生の中では「束の間の安らぎ」の時だったのではないだろうかと思える。夜道、田畑の向こうに池上本門寺、お会式の光と音を感じながら、これまでの人生の酸い「つらいこと」を「それだけのこと、夜になったら家に帰って寝るまでのこと」と片づける。色々な見方ができるだろうが、僕はそこに、中也の、未来へ強く生きて行こうとする力が見える気がする。その後長男を亡くす訳だが・・・いたたまれない。
※ 本記事最後に「お会式の夜」詩を掲載

②お会式について
そもそも「お会式」とは何ぞやという話なのだが、wikipediaによれば「宗祖等の命日にあわせて行われる大法会(祭り)」とある。つまり本門寺特有の物ではない。しかし、これだけ大きなお会式は日本唯一、、のはず。池上本門寺は日蓮宗大本山、日蓮聖人入滅の地である。ちなみに総本山はのりピーで有名になった身延山で、蒼いうさぎの生息地として有名である。 本門寺のお会式を知っている人ならわかるだろうが、もうこれは「祭り」じゃない、「フェスティバル」だ。参道すべてが屋台と人で埋め尽くされ、大迫力の万灯行列が乱舞する。しかし本来のお会式にはもっと静寂かな光景がある。なぜならばこれは法要(法事、仏事)なのだ。
そして、個人的にそんなお会式を感じ取れる気がする場所があるのでご紹介しよう。中也が見ていた本門寺もこんな感じだったのではないだろうか。 本門寺から池上駅に向けて歩き、五反田方1つ目の線路を越えて真っ直ぐ行くと「曹禅寺」というお寺がある。そこで“お会式の夜”を迎えて欲しい。もう遠い記憶なのでまだ同じ光景があるか分からないのだが、真っ暗な道中に3~4台のバスが並ぶ「深夜のお化け屋敷ロケかな!?」なんて思う光景がある。 これはもちろんロケではない。日蓮宗の分派(お会式をやっているのは日蓮宗正派ではない・・らしい。)の皆さんが参列に来ているのだ。それはそれは荘厳な、畏敬の念を抱くような(使い方があっているのかわからないのだが)風景である。お会式は遠く感ぜられ、太鼓と人ごみの騒音は風に消化されて行き、とても涼やかな空気で満ちている。
ちなみに読んで字のごとくだが、曹禅寺は日蓮宗ではない。

江戸自慢三十六興・池上本門寺会式
③歌ができるまで~詩との出逢い~
もともと中原中也に興味を抱いたのは、友川カズキ氏がきっかけであった。中原中也に強く影響を受けている友川氏は『俺の裡で鳴り止まない詩~中原中也作品集』(キングレコード)という中原中也の詩を歌ったアルバムをだしており、CDを聞いた僕は当時できたてホヤホヤだった東急百貨店7階「MARUZEN&ジュンク堂書店 渋谷店」へと向かった。そこで『中原中也全詩集』(角川ソフィア文庫)を手にし、最初に適当に開いたページにあったのが「お会式の夜」だった。 強い縁を感じ、その瞬間に「歌にしよう」と思い、はじめて詞先で作曲した。ものの30分程度で大枠が完成した時、自分を天才だと思った、マジで。その数か月後にAPIA40での初ライブ(ライブ活動本格化の初陣)があり、最初から今の今までずっと歌っているのだ。 今では悔しきかな一番人気楽曲(詩を書いてないので)であり僕の名刺代わりになっている。
④最後に
中也の詩作は死後80年以上経っているため著作権が切れている。そのため大分好き勝手に歌っているしwebにも上げている。とはいえこの詩は元々正式に発表された詩ではない。というのもこの詩は「早大ノート」と呼ばれる中也のノートに書き遺されていたものなのだ。このような詩を少しでも世に広められたら嬉しいし、そうであるべきだと思う。なんて・・そんな大それたことを言うもんじゃないかな・・・。
お会式の夜 十月の十二日、池上の本門寺、 東京はその夜、電車の終夜運転、 来る年も、来る年も、私はその夜を歩きとおす、 太鼓の音の、絶えないその夜を。
来る年にも、来る年にも、その夜はえてして風が吹く。 吐(は)く息は、一年の、その夜頃から白くなる。 遠くや近くで、太鼓の音は鳴っていて、 頭上に、月は、あらわれている。
その時だ 僕がなんということはなく 落漠(らくばく)たる自分の過去をおもいみるのは まとめてみようというのではなく、 吹く風と、月の光に仄(ほの)かな自分を思んみるのは。
思えば僕も年をとった。 辛いことであった。 それだけのことであった。 ― 夜が明けたら家に帰って寝るまでのこと。
十月の十二日、池上の本門寺、 東京はその夜、電車の終夜運転、 来る年も、来る年も、私はその夜を歩きとおす、 太鼓の音の、絶えないその夜。
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